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2023/05/27 17:26

「桐紋」の起源と歴史

「桐紋」とは、日本十大家紋の一つであり、日本の紋章の中でも格式の高いものとされています。初見では、「蒙古襲来絵詞」に描かれた天草大矢野氏の軍旗として確認されています。室町時代の文献「見聞諸家紋」には、足利将軍家や一門15家、進士氏、安部氏、明石氏、藤民部など20家が記載されており、江戸時代の「寛政重修諸家譜」では473家が使用していたことが記されています。

当初、桐紋は皇室専用の紋章として使用されていましたが、後に皇室以外の戦国大名などの諸侯も使用するようになり、皇室は菊紋章のみを用いるようになりました。徳川幕府では、庶民から侍や大名まで幅広い階層で使用されており、473家もの家が桐紋を採用していました。桐紋は日本十大家紋の一つに数えられ、特に庶民の間では「五三桐」と呼ばれるバリエーションが広く普及し、紋付き服の貸し借りが行われました。

桐紋は、古代中国で鳳凰が止まる木として神聖視されていたことから、日本でも古くから天皇の衣類の文様として使用されるなど、菊紋章に次ぐ格式のある紋章とされていました。室町幕府以降、武家たちは桐紋を望んでおり、足利尊氏や豊臣秀吉なども天皇から桐紋を賜っていました。そのため、「五七桐」は「政権担当者の紋章」としての認識が広まりました。ただし、徳川家康のように桐紋の使用を断り、個人的には使用しなかった人物も存在しました(ただし、家康は後に大御所時代に桐紋を用いるようになりました)。豊臣政府や徳川幕府では、桐紋が貨幣や刻印などに用いられ、全国に広まったことで、それぞれの政府を表す紋章としての地位を確立しました。明治政府も1872年に大礼服を定め、勅任官は上着に「五七桐」を用いることが定められました。

桐紋は日本の紋章の中でも歴史と格式が深く、多くの人々に愛されています。その由来と歴史は、日本の文化や政治の舞台で重要な役割を果たしてきたことを物語っています。